火星の大気は地球の1%。不可能を可能にしたヘリコプター「インジェニュイティ」

1903年、ライト兄弟が地球で初めて動力飛行に成功しました。 それから118年後の2021年4月19日。人類はついに「地球以外の惑星」で動力飛行に成功しました。

その偉業を成し遂げたのが、重量わずか1.8kgの小さなヘリコプター、「インジェニュイティ(Ingenuity)」です。

火星ではじめて飛行したヘリコプターIngenuityの外観
Image Credit: NASA/JPL-Caltech

「たかがドローンでしょ?」と思ってはいけません。 火星で飛ぶというのは、「地球の高度3万メートル(エベレストの3倍以上の高さ)をプロペラ機で飛ぶ」のと同じくらい、物理的に無理ゲーな挑戦なのです。


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機体:空気がないなら回せばいい

火星の大気密度は、地球のわずか「1%」しかありません。 スカスカすぎて、普通のプロペラでは空気をかけず、揚力が生まれないのです。

そこでNASAが出した答えはシンプルかつ豪快でした。

  1. 軽くする: 本体はティッシュ箱サイズ、重さはたった1.8kg。
  2. 長くする: バカでかいカーボン製のローター(直径約1.2m)を装備。
  3. 速く回す: 回転数は毎分2400〜2900回転。地球のヘリコプターの約5〜10倍という超高速回転です。

「薄い空気でも、死ぬ気でかき混ぜれば飛べる」 この力技を実現するために必要だったのが、次に紹介する「高出力バッテリー」です。


電池:まさかの「市販品」採用

ここが今回の最重要ポイントです。 インジェニュイティが搭載しているリチウムイオン電池。 実はこれ、宇宙専用の特別製ではありません。

なんと、ネット通販でも買える「ソニー製(現ムラタ)の18650セル」(VTC4などと言われています)が6本使われているのです。 皆さんが持っている古いノートPCや、電子タバコ(VAPE)、電動工具に入っている電池です。

なぜ市販品を選んだのか? それは、宇宙用電池よりも、民生用のハイパワー電池の方が「エネルギー密度」と「瞬発力(Cレート)」が高かったからです。 薄い大気でローターを爆速で回すには、一気に大電流を流せる民生品セルのパワーが必要でした。 日本の技術(ソニー/ムラタ)が、火星の空を支えていたなんて、ちょっと誇らしいですよね。


マネジメント:飛ぶことよりも「耐えること」

しかし、電池にとって火星は地獄です。 夜の気温はマイナス90℃。何もしなければ電解液という中に入っている液体が凍って電池が使えなくなります。

そのため、インジェニュイティの1日のエネルギー収支は衝撃的です。

  • 飛行に使うエネルギー: 約30%
  • ヒーター(保温)に使うエネルギー: 約70%

なんと、必死にソーラーパネルで充電した電気の7割以上を、夜を越すための「自分を温める暖房代」に消えているのです。 飛ぶのはほんの一瞬(数十秒)。残りの時間はひたすら寒さに耐え、バッテリーを抱きしめて震えている……。 これが、火星ドローンのリアルな日常です。


5回の予定が72回へ

当初、NASAは「5回飛べれば大成功」と考えていました。 しかし、この小さなドローンはタフでした。

パーサヴィアランスの「スカウト役」として、先回りして地形を偵察したり、自分自身の限界高度に挑んだりと、実に72回もの飛行を成功させました。

2024年1月、着陸時の事故でローターを損傷し、ミッションは終了しました。 しかし彼は今も、ジェゼロ・クレーターの砂丘に座っています。 そのソーラーパネルの下には、ライト兄弟の飛行機「ライトフライヤー号」の翼の布切れが、お守りとして貼り付けられたまま。

地球の空を最初に飛んだ布と、火星の空を最初に飛んだ電池。 二つの歴史的遺物は、静かに次の人類の到着を待っています。

参考文献

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この記事を書いた人

「深夜の星空喫茶」管理人。 三度の飯より星とミルクティーが好き。飯もちゃんと好き。

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