夕焼けの残る西の空や、明け方の東の空に、宝石のように輝く一番星。 みなさんは「金星(宵の明星・明けの明星)」を見上げたことはありますか?
そのあまりの美しさから、ローマ神話では愛と美の女神「ヴィーナス」の名を与えられたこの惑星。 でも実は、その素顔が女神というよりは「灼熱の地獄」に近いということは、天文ファンの間では有名な話かもしれません。
けれど、もし時計の針を何十億年も戻せたら……。 あの燃えるような金星にも、私たちと同じ「青い海」が広がっていたかもしれない。 そんな説があることをご存知でしょうか?
今日は、美しくも過酷な隣の惑星が、かつて持っていたかもしれない「失われた海」について、少し切ない科学のお話をしましょう。

地球の「双子の妹」が選んだ、別の道
金星はよく、地球の「双子」や「姉妹」と呼ばれます。 大きさも、重さも、地球とそっくり。生まれた場所もすぐ隣同士。 それなのに、今の二つの星の姿はあまりにも違います。
地球は、豊かな水をたたえ、生命が歌う青い星。 一方、現在の金星は、分厚い二酸化炭素の雲に覆われ、地表温度は460℃(鉛が溶けるほど!)、気圧は地球の深海並みの90気圧という過酷な世界です。
なぜ、仲の良かったはずの双子は、こんなにも違う道を歩んでしまったのでしょうか? 実は、昔の金星はもっと穏やかで、今の地球のように「海」が存在していた可能性が示唆されています

残された証拠は「重い水」の足跡
「460℃の世界に海があったなんて、どうしてわかるの?」 そう思いますよね。もう蒸発して跡形もないはずですから。
実は、金星の大気の中には、かつてそこに水があったことを示す「動かぬ証拠」が残されていました。 それが「重水素」という存在です。
ここからは少し、ミクロな世界のお話をしましょう。 水を構成する「水素(H)」には、実は重さが違う兄弟がいます。
- 普通の水素(H):とても軽い
- 重水素(D):普通の水素の2倍の重さがある
私たちが飲む水(H₂O)の中にも、ごくわずかにこの「重水素」が含まれています(D/H比)。 もし、金星の大気に水蒸気がたっぷりあったとしたら、長い年月の間に何が起きるでしょうか?
軽い「普通の水素」は、宇宙空間へふわふわと逃げ出しやすい性質を持っています。 一方で、重い「重水素」は、その重さゆえに重力に引かれ、星にとどまりやすいのです。
探査機が金星の大気を調べたところ、驚くべきことがわかりました。 金星に残っている水蒸気の中に含まれる「重水素」の割合が、地球の海水に比べて極端に(約100倍以上も)高かったのです。
これは、何を意味するのか。 例えるなら、「大人ばかりが残っている部屋」のようなものです。 子供(軽い水素)はみんな外へ遊びに行って帰ってこなかったけれど、大人(重水素)だけが部屋に残された。 つまり、「かつてここには、子供も大人も混ざった大量の群衆(=海)があったはずだ」という証明になるのです。
太陽という名の泥棒
では、かつてあったはずの海は、どうして消えてしまったのでしょうか? 犯人は、皮肉にも私たちに恵みを与えてくれる「太陽」でした。
水を引き裂く紫外線
昔の金星には、今の地球と同じように海があったと考えられています。 しかし、金星は地球よりも太陽に近いため、太陽からの熱を強く受けます。
- 海の水が温められ、大量の水蒸気となって空へ昇ります。
- 上空へ行った水蒸気は、太陽からの強烈な紫外線を浴びます。
- 紫外線はハサミのように水の分子(H₂O)を切断します(これを光解離と呼びます)。
- バラバラになった水素のうち、軽いものは宇宙の彼方へ逃げ出し、酸素は地表の岩石と結びついて錆びつかせます。
こうして、水は「循環」することなく、一方的に宇宙空間へと引き剥がされていきました。
止まらない暴走
水蒸気は、二酸化炭素以上に強力な「温室効果ガス」でもあります。 海が蒸発すればするほど、大気は熱を閉じ込め、さらに気温が上がり、さらに海が蒸発する……。 これを「暴走温室効果」と呼びます。
一度スイッチが入ってしまったこの悪循環は、海が一滴残らず干上がるまで止まりませんでした。 金星の海は、太陽の輝きと引き換えに、空へと吸い上げられて消えてしまったのです。

まとめ:今夜、輝く「警告」を見上げて
いかがでしたか?
もし、金星がもう少し太陽から離れていたら。 もし、地球がもう少し太陽に近かったら。
私たちが今、波の音を聞きながら過ごせるのは、地球が「ハビタブルゾーン(生命居住可能領域)」という、奇跡のようなバランスの場所に居続けてくれたおかげなのかもしれません。
今夜、もし西の空にひときわ明るく輝く金星を見つけたら、思い出してあげてください。 その眩しい輝きの下には、かつて私たちと同じように青い海をたたえ、そしてそれを失ってしまった、悲しい双子の記憶が眠っていることを。
宇宙に浮かぶ「水」は、それほどまでに儚(はかな)く、尊いものなのです。

参考文献
コメント